大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和62年(ワ)4842号 判決 1992年3月31日

原告 正木匠

右訴訟代理人弁護士 久保田康史

同 川端和治

同 内藤隆

被告 学校法人 豊南学園

右代表者理事 武田昭二

右訴訟代理人弁護士 佐藤博史

同 飛田秀成

主文

一  原告が、被告に対し、労働契約上の権利を有する地位にあることを確認する。

二  被告は、原告に対し、金二八四万一〇〇〇円及び昭和六二年四月一日以降、毎月二五日限り、金二三万六七五〇円を支払え。

三  原告のその余の請求を棄却する。

四  訴訟費用は、被告の負担とする。

五  この判決は、第二項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  原告が、被告に対し、労働契約上の権利を有する地位にあることを確認する。

2  被告は、原告に対し、金四一五万八六二九円及び昭和六二年四月一日以降、毎月二五日限り、金二三万六七五〇円、毎年六月末日限り、金四九万一三九七円、毎年一二月末日限り、金八二万六二三二円を支払え。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求の原因

1  原告は、昭和五五年四月から非常勤講師として被告に勤務し、昭和五六年四月には非常勤講師契約を更新した。さらに、原告は、昭和五七年四月に被告の男子部の専任講師となり、昭和五八年四月に被告の女子部の専任講師となり以後昭和六一年三月まで専任講師として勤務してきた。

2  被告は、原告に対して昭和六一年三月三一日付の人事発令通知書を送付して「委嘱期間満了により職を解く」旨を通知(以下「本件雇止め」という。)し、原告と被告との間の労働契約(以下「本件労働契約」という。)の存在を争っている。

3  原告は、昭和六〇年度(年度とは当年四月一日から翌年三月三一日までをいう。)において毎月二五日限り二三万六七五〇円の賃金の支払いを受けていた。また、原告は、毎年六月末日限り賃金の一・九七か月分及び二万五〇〇〇円の賞与、毎年一二月末日限り賃金の三・一九か月分及び七万一〇〇〇円の賞与の支払いを受けていた。

4  よって、原告は、被告に対し、労働契約上の権利を有する地位にあることの確認、昭和六一年度の賃金及び賞与の総額四一五万八六二九円、昭和六二年四月一日以降、毎月二五日限り二三万六七五〇円の賃金、毎年六月末日限り四九万一三九七円の賞与、毎年一二月末日限り八二万六二三二円の賞与の支払いを求める。

二  請求の原因に対する認否

1  請求の原因1及び2の事実は認める。

2  請求の原因3の事実のうち、原告が昭和六〇年度において毎月二五日限り二三万六七五〇円の賃金の支払いを受けていたことは認め、その余は否認する。被告が昭和六〇年度に原告に対して支給した賞与は、夏期が四一万九七〇六円であり、冬期が七〇万三一〇四円である。

三  被告の主張

原告は被告との間で、昭和六〇年四月一日に原告を専任講師としその期間は一年とする旨を定めて労働契約を締結し、この契約は昭和六一年三月三一日の経過による期間満了によって終了したものである。

四  被告の主張に対する認否及び反論

1  被告の主張は否認する。

2  仮に、本件労働契約に一年間の期間の定めがあったとしても、それは公序良俗に反して無効である。

専任講師の職務内容は、担当する授業時間数が週一八時間程度であること、クラス担任となりホームルーム、生活指導、学習指導等の学級経営にあたり、PTAとの会合や校外授業の引率等の業務に従事すること、クラブ顧問、生徒会顧問等の校務を分掌することにおいて教諭と全く変わりがない。また、賃金も本俸がクラス担任がない場合に教諭の九五%であるほかは、毎年の昇給額、諸手当ての支給額は同一であり、しかもほとんどすべての専任講師がクラスを担任しているので、実質的には本俸も同一である。さらに有給休暇、退職金も同一である。したがって、本件専任講師制度は、その職務内容及び労働条件において、任期の点を除けば教諭と全く変わりのない制度なのであり、教諭と職務内容、労働条件の異ならない専任講師についてことさらに一年の期間を定めることは、それ自体に何の合理性も認められない差別的取扱いであることは明らかであり、憲法一四条、労働基準法三条、教育基本法六条二項(教員の身分尊重義務)の精神に照らし、民法九〇条に違反する公序良俗違反となるというべきである。また、本件労働契約における契約期間の定めは、もっぱら解雇の制限に関する法を脱法する目的で設けられているものといわざるをえず、この点からも民法九〇条に違反して無効である。

3(一)  原告と被告との間の労働契約は、以下に述べるとおり期間の定めのない契約と実質的に異ならない状態で存在していたもので、そのような場合には雇止めの効力の判断にあたっては、解雇に関する法理を類推すべきであり、本件雇止めは無効である。

(二) 教育労働者における雇用の継続の必要性

教育基本法六条二項は、教員の身分の尊重とその待遇の適正を教育制度の基本原理の一つとして定めている。これは、学校における教育労働が人間と人間とのふれ合いを通じて行われる極めてデリケートで内面的、人格的な作用であると同時に、多数の教員の集団的な作業であることに鑑み、特にその身分が安定的でなければならないことを明らかにしたものである。したがって、教育の本質からして、教員の地位、身分はできるだけ安定的なものでなければならない。

(三) 専任講師制度の目的と更新にあたって考慮されるべき事情

被告における専任講師制度導入の目的は、被告の全教員の資質向上をはかり被告のレベルアップを行うことである。すなわち、専任講師制度は適正試験(昭和五七年度から廃止された。)及び勤務評定と結びつけることによって専任講師の能力の向上を期待したものであり、そのことによって学校全体の評価の上昇を企図したものである。

また、昭和五五年一月一九日に行われた労働組合との団体交渉において、被告は、教師として重大な欠陥があるかあるいは身体の状況からみて勤務ができない場合にのみ雇止めを行うと発言しており、専任講師契約の更新にあたっては、この二つの事情のみが考慮されるべきなのである。

(四) 専任講師の職務内容

被告には期間の定めのない労働契約上の地位を有する教諭と専任講師、非常勤講師の三種類の労働契約の形態がある。そして、専任講師は授業、クラス担任、校務分掌、クラブ顧問のすべてを担当しており、職務の内容において教諭と変わるところはない。

(五) 専任講師の労働条件

専任講師の労働条件は、教諭とほぼ同一である。労働時間、休日等の定めは同一である。給与は、教諭の九五パーセントであったが、昭和五七年度から専任講師がクラス担任を持った場合には五パーセント加算され、教諭と同一になることとなった。また、諸手当は全く同一である。そして、退職金についても教諭と同様の制度が適用される。

(六) 更新拒絶の実態

被告では本件雇止め以前に雇止めをされた専任講師は存在しない。

(七) 採用方法

教諭と専任講師とでは、採用方法において異なるところはない。

五  原告の反論に対する認否及び再反論

1  原告の反論2の事実は否認する。

2(一)  原告の反論3(一)の主張は争う。

被告は、専任講師について勤務評定を行い、被告が再契約を望む専任講師に対しては、二月ころ講師の委嘱と題する書面を送り、翌年度も勤務を希望する専任講師について新年度の四月一日付で委嘱期間を一年とする辞令を交付する手続きを履践していた。したがって、原告と被告との間の労働契約が期間の定めのない契約と実質的に異ならない状態で存在していたということはできず、解雇に関する法理が類推適用されることはない。

(二) 原告の反論3(二)の主張は争う。

(三) 原告の反論3(三)の事実は否認する。

被告において専任講師制度を導入した理由は次のとおりである。私立高等学校への進学数は昭和六四年度から急速に減少することが出生数の動向により明らかであったが、他方昭和六〇年前後は生徒の一時的急増期にあたり、被告は定員を上回る生徒の受け入れを要請されていた。そこで、生徒の急増期には教科の授業のみではなく教諭と概ね同様の校務を分掌するものとしてこの間の教育の充実をはかり、昭和六四年度からの生徒急減期には雇用期間の定めが存在することにより雇用調整を可能にして教諭の人員整理などによる混乱を未然に防ぐための制度として、専任講師制度を導入したのである。

(四) 原告の反論3(四)の事実のうち、専任講師が一般に原告の主張する職務を担当することは認めるが、その余は否認する。

教頭、部長、科長、各学年主任は必ず教諭が就任しており専任講師はこれらの役職にはつけず、また校務分掌上の主事はすべて教諭が担当する。

(五) 原告の反論3(五)ないし(七)の事実は認める。

3  仮に、専任講師契約を更新しないことに何らかの理由が必要であるとしても、本件には以下の通り合理的理由が存在する。

(一) 原告は生徒、父母からの信任が著しく低く、同人の教育に対する姿勢について、生徒、父母から学園に対し頻繁に苦情が寄せられていた。

(1) 昭和六〇年五月ころ、ある生徒から校長の自宅に電話で「原告は連夜のようにだらしない姿で盛り場を飲み歩き、父母に現場をみられて問題になっているので注意してほしい。」旨の苦情があった。

(2) 昭和六〇年一〇月下旬ころ、原告が担任をつとめていたクラスのある生徒から校長の自宅に電話で「原告の担任をはずしてほしい。」旨の申入れを受けた。

(3) 昭和六〇年一二月初めころ、ある生徒の父が学校に校長を訪れ「原告は度々遅刻するなどで生徒に信用がない。あれで生徒への適切な指導ができるのか。」などと指摘された。

(4) 昭和六〇年一二月、ある生徒の母が電話で校長に対し「原告は生徒に対する注意、指導が極めて不充分だ。授業態度の悪い生徒を放置するので、まじめな生徒が迷惑している。」などと苦情を述べた。

(5) 昭和六一年一月ころ、被告の女子部教頭に対しある生徒の父兄から電話があり「女子部のある教員が、遅刻や欠勤が多く授業が成り立たない。よく指導してほしい。」という苦情があった。

(二) 原告は遅刻が極めて多く、特に昭和六〇年度は、遅刻九回と同人が勤務する女子部教員(合計二〇名)の中で突出していた。

原告は昭和六〇年度における欠勤も一五回と極めて多く、これらは事後に有給休暇に振り替えられてはいるものの、いずれも直前又は事後の申出で欠勤したもので、被告は授業の補講などをしいられ、被告の教育業務執行に著しく支障を及ぼした。

(三) 原告は、特に昭和六〇年暮れころから教職員室などで他の教員を誹謗し、あるいは上司に反抗的態度をとるなど教職員間で著しく協調性を欠いていた。

(1) 原告は、遅刻や欠勤のため他の教職員に補講などで迷惑をかけた場合でも「申し訳ない」などの一言もなく、また上司(女子部教頭、部長、科長)に対し朝のあいさつすら行わないという態度であった。

(2) 原告は、昭和六一年一月中旬ころ、カリキュラムの検討がなされていた際にきこえよがしの態度で「こんな学校やめてやる。」と放言した。

(3) 原告は、昭和六一年二月上旬ころ、男子部の牛頭教頭に対し「先生が女子部の教頭をやってください。あんなの(女子部の吉原教頭)は教頭でない。」と発言した。

(4) 原告は、昭和六一年初めころ、登校時電車内で痴漢にあったため以後の登校をためらっていた女子部生徒につき、翌日から被告の男子部生徒と同道して登校するようにとりはからったが、この点が男女別学体制をとり学内で男女生徒の私的交際を原則として禁止している被告の教育方針に照らして妥当ではないという注意を中村科長から受けた。これに対して、原告は、この注意を聞くと急にふてくされた様子で「じゃ、どうしたらいいんです。」と言って、それ以後中村科長とことさら口を聞かない態度をとるに至った。

(四) 原告は、その職務遂行が極めて怠慢であった。

(1) 原告は、昭和五九年度において女子部普通科二年E組のクラス担任であった際、一学期に諭旨退学処分を受けた生徒に関する書類を同学期中に提出すべきであったにもかかわらず、二学期(九月中旬)になりようやく提出した。

(2) 指導要録の作成の提出期限が昭和五九年度末(昭和六〇年三月末)であったにもかかわらず、原告は、作成を分担している部分について昭和六〇年度二学期末(昭和六〇年一二月末)になりようやく提出したため、指導要録の作成、配布が大幅に遅れるという事態となった。

(3) 昭和六〇年度の出席簿についてみると、四月第二週の小計及び累計欄における出席総数及び出席者百分比の記載もれ、七月八日第二校時の担当教諭氏名、七月一二日第一校時の教科名及び担当教諭氏名の各記載もれ、一〇月二九日の第一校時の担当教諭氏名、一一月第五週の小計及び累計欄中の臨休日数の各記載もれ、一月第四週累計欄中の出席者百分比、二月第四週の累計欄中生徒五三名全員の出席日数、二月第五週の累計欄中の四一名分の出席日数の各記載もれ、全学期を通じて出席簿の最初と最後に記載する在籍者数、新入数、長期欠席数の記載もれがあり、記載もれが極めて多かった。

(4) 原告は、各学期ごとに提出すべき評定一覧について、昭和六〇年度一学期授業時間数欄に記入すべき授業時数の項(全一三科目)の記載を全くしていない。

(五) 専任講師の再契約の適否の判断にあたっては、六月及び一二月になされた勤務評定を重要な参考資料とするが、原告の昭和六〇年度の二回の勤務評定は、原告の(一)ないし(四)の劣悪な勤務態度を反映して女子部の教諭、専任講師(合計二〇名)中いずれも最低であった。

(六) 被告では、非常勤講師を除く教員の週間持時間数を一八時間とすることを原則としていたが、女子部国語科教員のみが昭和五九年度、昭和六〇年度において一名を除き一七時間以下であったところ、昭和六一年度は女子部においてクラスが一クラス減少するために、女子部国語科教員の全員が一七時間以下になることが明らかになった。

このような事態は、生徒の急減期を目前に控えて厳しい経営環境の中で教員の充分な活用が要請されるという経営面からみても、他教科の教員とのバランスという面からみても好ましくなかったので、専任講師を一名減員し、女子部国語科教員の持時間数を原則通り一八時間に近づけるとともに、不足の部分を非常勤講師の活用によってカバーすることにした。そこで、昭和六〇年度の勤務評定が最低であった原告については再契約を行わないことを決定したのである。

六  被告の再反論に対する認否

1  被告の再反論3(一)(1)ないし(5)の事実は否認する。

2  被告の再反論3(二)の事実のうち、原告が昭和六〇年度に遅刻及び有給休暇をとる回数が比較的多かったことは認めるが、その回数については知らない。

3  被告の再反論3(三)(1)ないし(4)の事実は否認する。

4  被告の再反論3(四)(1)、(2)及び(4)の事実は否認する。被告の再反論3(四)(3)の事実のうち、被告が主張する欄に記載のないことは認めるが、記載もれが極めて多いことは否認する。

5  被告の再反論3(五)の事実は否認する。

6  被告の再反論3(六)の事実のうち、昭和六一年度において女子部が一クラス減少となったことは認め、その余は否認する。

第三証拠《省略》

理由

一  原告と被告との間の専任講師契約について

1  原告が昭和五五年四月から非常勤講師として被告に勤務し、昭和五六年四月に非常勤講師契約が更新されたこと、原告が昭和五七年四月に被告の男子部の専任講師となり、昭和五八年四月に原告は被告の女子部の専任講師となったこと、以後専任講師契約は二回更新され、昭和六一年三月まで原告が被告の女子部の専任講師であったこと、被告が原告に対して昭和六一年三月三一日付の人事発令通知書を送付して本件雇止めを行ったことは、当事者間に争いがない。

2  採用方法

被告においては、教諭と専任講師とでは採用方法において異なるところがないことは、当事者間に争いがない。

3  職務内容

専任講師が授業、クラス担任、校務分掌、クラブ顧問のすべてを担当することは当事者間に争いがない。

《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。

被告の女子部における校務分掌としては、教務部、生活指導部、生徒会指導部、図書部、保健安全指導部、進路指導部、庶務部がある。原告は、昭和五八年度は女子部普通科一年B組のクラス担任、バスケットボール部のクラブ顧問となったほか、校務分掌として生徒会指導部、進路指導部を担当した。昭和五九年度には、原告は、女子部普通科二年E組のクラス担任、バスケットボール部のクラブ顧問となったほか、校務分掌として生徒会指導部、進路指導部を担当した。原告は、昭和六〇年度は女子部普通科三年C組のクラス担任、バスケットボール部のクラブ顧問となったほか、校務分掌として生徒会指導部、進路指導部を担当した。専任講師は、教頭、部長、科長という管理職、各学年主任、校務分掌の各部の責任者である主事にはなれない。

以上によれば、専任講師は管理職等になれないという制度上の制約はあるが、専任講師の職務内容は教諭のそれと同一であり、原告は昭和五八年度ないし昭和六〇年度において教諭と同一の職務を行ったということができる。

4  労働条件

労働時間、休日等の定めは教諭と専任講師とは同一であること、給与は教諭の九五パーセントであるが、専任講師がクラス担任を持った場合には五パーセントの加算があり、クラス担任を持った場合には給与も同一であること、諸手当が同一であること、退職金についても教諭と同一の制度が適用されることは当事者間に争いがない。

5  専任講師制度の目的等

《証拠省略》によれば、被告で専任講師を体系的な制度として導入することが決定されたのは昭和五四年一二月ころであり、実際に導入されたのは昭和五五年四月からであること、被告が作成した専任講師に関する規定(内規)一項には「豊南高等学校全教員の資質向上をはかり、以て本校のレベルアップを目的として専任講師の制度を設ける。」と、三項三号には「教諭に欠員を生じた場合は、原則として専任講師から充足する。」と規定されていることが認められ、これによれば被告における専任講師制度は被告の教員の資質向上をはかることを主たる目的として導入されたものであることが推認できる。これに対して、被告は生徒の急増期、急減期が相前後してやってくることの対策として専任講師制度を導入したと主張し、証人谷源治の証言にはこれに沿う部分があるが、同証言は《証拠省略》に照らして信用できない。

《証拠省略》によれば、被告は昭和五五年一月一九日に豊南学園教職員労働組合に対して専任講師制度についての説明会を行ったこと、この説明会において被告の事務長は専任講師について一年間の期間満了ということだけで雇止めを行うことはせず、雇止めを行うのは教師として重大な欠陥があるか身体の状況からみて勤務ができない場合のみであるという趣旨の説明を行っていることが認められる。

6  専任講師契約更新の手続き

《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。

被告では専任講師契約の更新にあたっては、毎年一月ころに契約を継続するかどうかについての検討を行い(昭和六〇年四月に更新をするかどうかを判断するにあたっては、女子部の専任講師については、女子部の管理職である教頭、部長、科長が昭和六〇年一月ころに検討を行い、校長の決裁を受けるという形がとられているが、それ以前にはどのような形で検討が行われていたのかは証拠上明らかではない。)、被告が契約継続を望む専任講師に対しては、二月ころ講師の委嘱についてと題する書面を送付して専任講師の側で契約を継続する意思があるかどうかの確認を行い、翌年度も勤務を希望するとの回答をした専任講師については、新年度の四月一日付の委嘱期間を一年とする辞令を交付する手続きを行っていた。原告の専任講師契約は三回にわたって更新がなされているが、いずれの場合も講師の委嘱についてと題する意思確認の書面が送付され、四月一日付の委嘱期間を一年とする辞令が交付されていた。

7  専任講師契約更新の運用

本件雇止め以前に雇止めをされた専任講師が存在しないことは当事者間に争いがない。

《証拠省略》によれば、昭和五八年四月には七人の専任講師が、昭和五九年四月には八人の専任講師が、昭和六〇年四月には一〇人の専任講師が契約を更新されていることが認められる。

二  原告に対して、昭和六〇年二月ころ講師の委嘱についてと題する書面が送付され、昭和六一年度も専任講師として勤務を希望するかどうかの確認が行われ、昭和六〇年四月一日付の期間を一年間とする専任講師委嘱の辞令が交付されていたことは、前記一6に認定のとおりであり、これによれば本件労働契約には一年間の期間の定めがあったものと認められる。これに対して、原告は本件労働契約における一年間の期間の定めは公序良俗に反して無効であると主張するが、一年を超えない期間について労働契約を締結することは原則として自由であり、本件労働契約における一年間の期間の定めが公序良俗に反するということはできず、原告の主張は理由がない。

原告は、本件労働契約は期間の定めのない契約と実質的に異ならない状態で存在していたものであると主張するが、被告における専任講師契約更新の手続きは前記一6に認定のとおりであり、更新の手続きは厳格に行われていたものであるから、本件労働契約が期間の定めのない契約と実質的に異ならない状態で存在していたものということはできない。

しかし、前記一3及び4に認定のとおり専任講師の職務内容及び労働条件は同一であること、前記一5に認定のとおり専任講師制度の主たる目的は被告の教員の資質向上にあったこと、前記一5の認定のとおり被告の事務長が専任講師について一年間の期間満了ということだけで雇止めを行うことはせず、雇止めを行うのは教師として重大な欠陥があるか身体の状況からみて勤務ができない場合のみであるという趣旨の継続雇用を期待させるような説明があったこと、前記一7に認定のとおり本件雇止め以前に雇止めをされた専任講師は存在しないこと等を総合して考慮すると、専任講師契約はある程度の継続が期待されていたものであり、原告との間においても前記一1に認定のとおり三回にわたり専任講師契約が更新されているのであるから、このような労働者を契約期間の満了によって雇止めにするに当たっては、解雇に関する法理が類推され、雇止めが社会通念上妥当なものとして是認することができないときには、その雇止めは信義則上許されないものといわなければならず、その場合には期間満了後における使用者と労働者間の法律関係は従前の労働契約が更新されたと同様の法律関係となるものと解するべきである。

三  そこで、本件雇止めが信義則上許されないものであるか否かについて検討する。

(一)  被告の再反論3(一)の事実について

《証拠省略》によれば、被告の再反論(一)(1)ないし(5)の苦情が校長あるいは教頭に寄せられたことが認められる。しかし、いずれも匿名でなされた苦情でありその内容の真実性には疑問が残るといわなければならず、また《証拠省略》によれば、原告は昭和五九年の秋ころから十二指腸潰瘍の疑いがあって腹痛に悩まされるという体調をくずした状態であり、昭和六〇年五月から昭和六一年三月ころまではお酒は全く飲んでいなかったことが認められ、被告の再反論(一)(1)の苦情の内容は真実ではないというべきである。

《証拠省略》によれば、昭和五六年夏に被告野球部が全国高等学校野球選手権大会(いわゆる夏の甲子園大会)の東東京大会で準優勝したことを契機として野球部の甲子園出場をめざすことが被告の方針とされることになり、被告は有望選手をスカウトするようになったこと、昭和五九年度に野球部の選手二人が国語で不合格となったために留年となったこと、これを契機として生徒の父母から被告の教員に対する非難が寄せられるようになったこと、被告が作成した昭和六一年三月二五日付の学園だよりには「組合の言う昨年六月の事件《証拠省略》によれば、昨年六月の事件とは発行人署名のないビラ配布により教職員への誹謗、中傷がなされたことをさすものであることが認められる。)より以前に学校長のもとには本校の教育、生徒指導のあり方について、父母、生徒、卒業生あるいは第三者からの不信、不満の声が数多く寄せられており、それらは匿名のものばかりではなく、実名を名乗り、署名したものもあり、必ずしも無責任なもののみとは断じ切れません。」との記載があることが認められる。このように、昭和六〇年度ころは匿名あるいは実名を名乗ったうえでの被告の教職員に対する内容が真実であるか否か不明の苦情、批判が数多く寄せられていたのであるから、原告について前記認定のような苦情が寄せられていたとしても生徒、父母からの原告に対する苦情が特に頻繁であるということはできず、また原告について生徒、父母からの信任が著しく低いということはできない。

(二)  被告の再反論3(二)の事実について

《証拠省略》によれば、原告は、昭和六〇年度においては、昭和六〇年五月二五日、同年六月一三日、同年九月二九日(学園祭の日)、同年一〇月二四日(テストの日)、同年一一月一五日、同年一二月一一日(テストの日)、同月二四日(生徒は冬期休業日)、昭和六〇年二月二〇日(入試合否判定会議で授業のない日)、同年三月六日(生徒は自宅研修日)、同月二四日(生徒は春期休業日)の一〇回にわたって遅刻をしたこと、原告の遅刻によって他の教員が補講しなければならなかったのは、昭和六〇年五月二五日の一時間めの授業と昭和六〇年一一月一五日の二時間めの授業の合計二時間である(昭和六〇年六月一三日については原告が担当するはずであった一時間めの授業と三時間めの授業を入れかえることによって補講の必要はなかった。)こと、原告の遅刻によって原告が担任を受けもっているクラスの朝のショート・ホームルームを他の教員に変わってもらわなければならなかったのは、昭和六〇年五月二五日、同年六月一三日、同年一〇月二四日、同年一一月一五日、同年一二月一一日の五回であったこと、原告が遅刻をしたのは、原告が昭和五九年秋ころから体調をくずし、明け方になると腹部に疝痛が走るという病気のためであったことが認められる。

《証拠省略》によれば、原告は、昭和六〇年度には、昭和六〇年四月二二日、同年五月二七日(テストの日)、同月二九日(テストの日)、同月三〇日(テストの日)、同年六月一八日、同年七月一六日(生徒は自宅研修日)、同年一〇月一六日ないし同月一八日、同年一二月一八日(生徒は自宅研修日)、昭和六一年二月一二日(テストの日)、同年三月一一日(生徒は自宅研修日)、同月二二日(生徒は春期休業日)の一三日(その他に昭和六〇年五月一三日は早退をしている。)の欠勤があること、この欠勤の理由はその大部分が明け方になると腹部に疝痛が走るという病気のためであり(《証拠判断省略》)、事前に有給休暇の取得をすることはできなかったものの事後に有給休暇に振り替えられている(昭和六〇年五月一三日の早退と同月二五日の遅刻も一日の有給休暇に振り替えられており、原告の有給休暇取得日数は一五日である。)こと、原告の欠勤によって補講が必要だったのは、昭和六〇年四月二二日の一時間め、同年六月一八日の一時間め及び三時間め、同年一〇月一六日の二時間めないし四時間め、同月一七日の一時間め及び五時間め、同月一八日の二時間め、四時間めないし六時間めの一二時間であったこと、原告の欠勤によって原告が担任を受けもっているクラスの朝のショート・ホームルームを他の教員に変わってもらわなければならなかったのは、昭和六〇年四月二二日、同年五月二七日、同月二九日、同月三〇日、同年六月一八日、同年一〇月一六日ないし一八日、昭和六一年二月一二日の九回であり、帰りのショート・ホームルームを他の教員に変わってもらわなければならなかったのは、昭和六〇年四月二二日、同年五月二九日、同月三〇日、同年一〇月一六日ないし一八日、昭和六一年二月一二日の七回(その他に昭和六〇年五月一三日の早退のときにも帰りのショート・ホームルームを変わってもらっている。)であったことが認められる。

以上によれば、原告の昭和六〇年度における遅刻一〇回、欠勤一三日という回数はやや多いものの、その原因は病気であったこと、欠勤一三日はいずれも有給休暇に振り替えられていること、原告の遅刻、欠勤によって原告が担当する授業に大きな影響が出たとはいえないことを考慮すると、昭和六〇年度における遅刻一〇回、欠勤一三日という事実を原告の雇止めにあたって重視することは妥当ではないといわなければならない。

(三)  被告の再反論3(三)の事実について

(1)  被告の再反論3(三)(1)の事実については、証人吉原一英の証言中にこれに沿う部分があるが、龍田順一証人(同証人は、昭和五〇年四月に被告の男子部の教諭(担当教科は国語)として採用され、昭和五二年四月以降は女子部の教諭(担当教科は国語)をしている者である。)が、「教師間の親睦を深めるために懇談会等をやる場合には原告は自分から音頭をとっていた。」と証言していることからすれば、原告が他の教職員に補講などの迷惑をかけた場合にお礼の一言もなく、上司に対し朝のあいさつすら行わないということは考えられず、吉原証人の右証言部分は信用できない。

(2)  被告の再反論3(三)(2)及び(3)の事実については、証人吉原一英は「昭和六〇年四月ころ、原告が男子部にいって吉原についてあれは教頭ではないと誹謗した。昭和六一年二月ころ原告がこんな学校はやめてやらあと言ったのを聞いた。」と証言するが、原告がどのような場面でどのような理由からそのような発言をしたのか等の具体的状況については全く証言しておらず、同証人の右証言部分は信用できないものといわなければならない。

(3)  《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。

原告がクラス担任をしていた三年C組の女子生徒は、墨田区内の自宅からJR総武線に乗りお茶の水駅又は飯田橋駅で地下鉄に乗り換えて被告に通っていたが、総武線の電車の中で常時特定の痴漢に会う(女子生徒が乗車車両を移っても痴漢は同生徒につきまとっていた。)ことに困惑していた。昭和六〇年一二月に、その女子生徒が耐えかねて通報をしたところ、同生徒と痴漢の双方が警察から事情聴取を受けることになった。女子生徒はこの事態にショックを受け、警察から事情聴取を受けた当日は被告を欠席し、その日に原告が電話をしたところ、同生徒は翌日以降も学校に行きたくないと原告に訴えた。この女子生徒は、一、二学期に欠席が多く、これ以上欠席すると卒業があやぶまれる状態であったが、同生徒からは幼なじみの被告に通学する男子生徒が近所にいるので、同人に総武線車内で近くにいてもらえば登校できると思うとの発言があった。これに対して、原告は被告が教育方針として男女交際を禁止していることは理解していたが、女子生徒が卒業できるかどうかということが問題となっており、車内で近くに立って痴漢の被害を予防するということは男女交際とはいえないことなどを考慮して、女子生徒に対して総武線の区間だけは男子生徒に同道してもらうことを許可した。これによって、女子生徒は事情聴取を受けた翌日から登校し、昭和六一年三月には被告を無事卒業した。女子生徒が事情聴取を受けた翌日の朝の三学年の担任打合せの際に、原告が、女子生徒の件について男子生徒に同道してもらって通学することを許可したと報告したところ、中村科長は、男女交際禁止の被告の教育方針に反するため妥当ではないとして「女子生徒を甘えさせないように。他に方法があるはずだ。」と発言したので、原告は、「では、どうしたらいいんですか。」と尋ねる(証人中村尹迪の証言中にはこの時に原告は語気荒くくってかかってきたとする部分があるが、《証拠省略》に照らして信用できない。)ということがあったが、それ以後原告が中村科長とことさら口を聞かなかったということはなかった。

以上によれば、原告が、中村科長に対して「では、どうしたらいいんですか。」と尋ねたことはごく自然なことであり上司に対する反抗的態度であるとはいえない。

(4)  したがって、原告が教職員室で他の教員を誹謗しあるいは上司に反抗的態度をとるなど教職員間では著しく協調性を欠いていたということはできない。

(四)  被告の再反論3(四)について

(1)  《証拠省略》によれば、原告は、昭和五九年度において女子部普通科二年E組のクラス担任であった際、一学期に諭旨退学処分を受けた生徒に関する書類を同学期中に提出すべきであったにもかかわらず 二学期になって提出したことが認められる。

しかし、《証拠省略》によれば、諭旨退学処分を受けた生徒に関する書類は生徒の退学届と一緒に提出しなければならないものであったこと、書類の提出が遅れたのは退学届がなかなか提出されなかったためであること、原告は退学届を早く提出するようにとの督促を生徒の自宅に何回か電話をかけて行っていることが認められ、これによれば、諭旨退学処分を受けた生徒に関する書類の提出が遅れたのは、原告の職務遂行が怠慢であったからであるということはできない。

(2)  《証拠省略》によれば、指導要録の作成の提出期限が昭和五九年度末(昭和六〇年三月末)であったにもかかわらず、原告は、作成を分担している部分について昭和六〇年度二学期末(昭和六〇年一二月末)になりようやく提出したため、指導要録の作成、配布が大幅に遅れるという事態となったことが認められる。

しかし、《証拠省略》によれば、年度末は忙しいので指導要録の作成が翌年度の五月末ころまでずれ込むことは他の教員についてもよくあったこと、原告の昭和五九年度の指導要録の作成が昭和六〇年一二月末まで遅れたことについて、早く作成するようにとの注意は被告からは全く行われなかったことが認められ、これによれば指導要録の作成が遅れたことは職務遂行が若干怠慢であったということができるが、専任講師契約の更新の判断にあたって無視できないほどのものとはいえない。

(3)  昭和六〇年度の出席簿について、被告の主張する欄に記載がないことは当事者間に争いがない。

しかし、《証拠省略》によれば、原告は専任講師になってクラス担任を持って以来同じ方法で出席簿の記入をしていたこと、その記入の仕方について注意を受けたことは全くなかったこと、七月八日第二校時の担当教諭氏名並びに七月一二日第一校時の教科名及び担当教諭氏名については本来担当教諭が記載しなければならないものであるが、原告はその記載もれをチェックすべきであったのにこれを見落としたこと、七月八日第二校時の担当教諭氏名並びに七月一二日第一校時の教科名及び担当教諭氏名を本来記載しなければならなかった担当教諭に対しては記載もれについての注意は全くなされていないことが認められ、これによれば被告の主張する昭和六〇年度の出席簿の記載もれについては、細かいあら捜しであるといわなければならず、専任講師契約の更新の判断にあたって考慮することは妥当ではない。

(4)  被告の再反論3(四)(4)の事実については、これを認めるに足りる証拠はない。

(五)  被告の再反論3(六)について

被告の再反論3(六)の事実のうち、昭和六一年度において女子部が一クラス減少になったことは当事者間に争いがない。

《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。

昭和六〇年度の被告の高校女子部における国語科の教師は、教諭の龍田順一及び岡田克己、専任講師の布施康子、佐々原みほり及び原告の五名であり、布施康子は、芸術科に分類される書道の教師も兼ねていた。また、この五名はいずれもクラス担任であり、週一回一時間のロングホームルームを担当しており、一年生の担任である者はさらに週一回礼法一時間を担当していた。昭和六〇年当時は、女子部の教員は男子部とは異なり主事となる者以外は校務分掌を二つ兼務しなければならなかった。昭和六〇年度の週間担当時間数は、龍田順一及び岡田克己が国語一五時間、ロングホームルーム一時間の一六時間、布施康子が国語八時間、書道八時間、ロングホームルーム一時間の一七時間、佐々原みほりが国語一六時間、ロングホームルーム一時間、礼法一時間の一八時間、原告が国語一六時間、ロングホームルーム一時間の一七時間であった。昭和六一年度は、一クラスが減少し国語が三時間少なくなり、原告について本件雇止めを行い、非常勤講師の豆塚千寿子を採用したので、週間担当時間数は、龍田順一が国語一七時間、ロングホームルーム一時間の一八時間、岡田克己が国語一五時間、ロングホームルーム一時間、礼法一時間の一七時間、布施康子が国語六時間、書道一〇時間、ロングホームルーム一時間、礼法一時間の一八時間、佐々原みほりが国語一七時間、ロングホームルーム一時間の一八時間、豆塚千寿子が国語一二時間となった。また、昭和六一年度の女子部国語科教員の週間の総担当時間は国語六七時間、書道一〇時間、ロングホームルーム四時間、礼法二時間の八三時間であった。

そこで、昭和六一年度に女子部の国語科の専任講師を一名減員する必要があったか否かについて検討する。

昭和六一年度の女子部国語科教員の週間の総担当時間は、前記認定のとおり八三時間であり、原告が専任講師契約を更新されていたとすればクラス担任としてロングホームルーム一時間を担当したものと考えられるから、総担当時間は、八四時間となり、これを五人の教師に割り振ると、週間担当時間が一七時間の教師が四名、一六時間の教師が一名となる。被告は、このような事態は、生徒の急減期を控えて厳しい経営環境の中で教員の充分な活用が要請されるという経営面からみても、他教科の教員とのバランスという面からみても好ましくなかったので、専任講師を一名減員しなければならなかったと主張するが、教員の週間持時間数を一八時間とするのを原則とするというのは被告が定めた一応の目安にすぎず、どうしてもこれを充足しなければならないという基準ではないこと、目安を下回るのも一時間の者が四名、二時間の者が一名であるにすぎないこと、女子部の教員は、男子部とは異なり校務分掌を主事となる者以外は二つ兼務しなければならなかったことは前記認定のとおりであることからすれば、昭和六一年度に女子部においてクラスが一クラス減少になるからといって直ちに専任講師を一名減員する必要があったと認めることはできない。

(六)  《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。

原告は、教材研究や教科の指導方法の研究に熱心であり、創意工夫をしてわかりやすい授業を行うように努力していた。被告の女子部の進路状況は、就職が約六〇パーセント、大学、短大への進学が約五パーセントという割合であった。校務分掌の進路指導部では、昭和五八年度から昭和六〇年度までは、就職指導を龍田順一と岡田克己が、大学、短大の進学指導を原告が、専門学校の進学指導を吉澤博昭が担当していた。原告は、昭和五八年度は大学、短大の進学指導担当者として大学進学説明会に参加し、入学試験に関する情報を収集整理して、生徒の進学指導をていねいに行った。昭和五九年度にも、原告は大学、短大の進学指導担当者として精力的に進学指導を行ったが、原告の尽力によって模擬テストの業者が平明社から学習研究社に変更され、父兄対象の進学説明会が行われた。昭和六〇年度には、原告は、過去二年間の経験をいかして進学指導の充実に努めたが、原告の努力により従来よりも対象教科を拡大し、進学希望者だけでなく、就職希望者をも含めた夏期講習会が開かれた。原告は、学級運営、校務分掌としての進路指導部及び生徒会指導部の仕事、バスケットボール部の顧問としての仕事を熱心に行い、同僚である教諭たちからも、教育に対する情熱、教員としての資質を評価されていた。

したがって、原告は、教員としての能力に劣るものということはできず、少なくとも平均を下回らない能力を有していたものというべきである。

(七)  以上の(一)ないし(六)を総合して考慮すると、本件雇止めは社会通念上妥当なものとして是認することはできず、信義則上許されないものというべきであり、原告と被告との間の法律関係は、従前の労働契約が更新されたのと同様の法律関係になるものと解すべきである。

四  次に、原告が支給されるべき賃金額、賞与額について検討する。

原告が、昭和六〇年度において毎月二五日限り二三万六七五〇円の賃金の支払いを受けていたことは当事者間に争いがない。したがって、原告の昭和六一年度の賃金額は二三万六七五〇円×一二=二八四万一〇〇〇円となる。

《証拠省略》によれば、被告の就業規則一七条には「給与及び旅費に関する事項は別に定める。」と規定されていること、原告は昭和六〇年度の夏期の賞与として四一万九七〇六円を、冬期の賞与として七〇万三一〇四円を支給されたことが認められる。しかし、被告においてどのような基準で賞与が支給されていたのかは証拠上明らかでなく、昭和六一年度以降の賞与については原告の主張する額の支払いが原告に対してなされなければならないことについての証明はないものといわざるをえない。

五  以上によれば、原告の本訴請求は、労働契約上の権利を有する地位にあることの確認、すでに発生した賃金債権二八四万一〇〇〇円及び昭和六二年四月一日以降毎月二五日限り二三万六七五〇円の割合による賃金の支払いを求める限度で理由があるのでこれを認容し、その余は失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条但書を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 山本剛史)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例